2025年7月の予言

たつき諒「やっぱり当たった!」-カムチャッカ地震で沸き立つネット予言村の住民たち

昨日のカムチャッカ地震を受けて、ネット界隈がまたしても予想通りの大騒ぎである。「たつき諒の予言、やっぱり当たった!」「7月って言ってたじゃん!」「これで信じない奴はバカ」-SNSには今日もこんな勝利宣言が踊っている。

都合の良い解釈の芸術作品たち

まず感心するのは、予言信者たちの「解釈力」の豊かさである。

7月5日に何も起きなかった時:
「あれは夢を見た日であって、予言の日じゃない!作者がちゃんと説明してる!」

カムチャッカで地震が起きた時:
「ほら見ろ!7月って言ってたじゃないか!完全に的中!」

この華麗なる手のひら返しには、もはや芸術的な美しさすら感じる。まるで占いの「今日は良いことがありそう」という予言が、コンビニでお釣りを1円多くもらった時に「やっぱり当たった!」と言い張るようなものだ。

「大災難」の定義も自由自在

予言では「東日本大震災の3倍の津波」「日本列島の3分の1が水没」という壮大なスケールが語られていたはずだが、いざ津波注意報(後に一部警報)程度の現実を前にすると、「でも津波警報出たじゃん!」と満足そうである。

これはまるで「今日は大雨が降る」と予言して、霧雨が降った時に「水が空から降ったから当たり!」と主張するようなものだ。予言の精度についてもう少し厳しい採点基準を設けてはどうだろうか。

震源地?そんな細かいこと気にするな

予言では「日本とフィリピンの間の海底が破裂」とされていたが、実際の震源はカムチャッカ半島。距離にして約3,000キロの誤差である。

しかし予言村の住民たちにとって、そんな「些細な」違いは問題ではない。「太平洋で地震が起きた」という大枠が合っていれば十分なのだ。これなら「今日は事故に注意」という占いで、地球の裏側で交通事故が起きても「当たった!」と言えそうである。

「信じない奴はバカ」という謎の上から目線

特に興味深いのは、予言が「的中」したと信じる人々の謎の優越感である。まるで自分が予言したかのような勝ち誇った態度で、「これでも信じないのか?」「科学信者は目を覚ませ!」と息巻いている。

しかし冷静に考えてみよう。彼らは何を「勝利」したのだろうか?自分で予言したわけでもなく、ただネットで拾った情報を信じただけである。それはまるで競馬で他人の予想を丸パクリして、的中した時に「俺の読みが当たった!」と自慢するようなものだ。

気象庁も困惑の「科学 vs 予言」論

更に面白いのは、「気象庁が否定したから逆に怪しい」「科学で説明できないものもある」という斜め上の論法である。まるで医者が「風邪ですね」と診断したら「西洋医学の陰謀だ!これは呪いに違いない!」と言い張るようなものだ。

科学的根拠を求める姿勢を「頭が固い」と批判しながら、都合よく「津波警報という科学的事実」は証拠として持ち出すダブルスタンダードも見事である。

アルゴリズムが育てる「確証バイアス村」

SNSのアルゴリズムは、同じような投稿を見たがる人たちを優しく同じ村に集めてくれる。予言信者には信者の投稿を、懐疑派には懐疑派の投稿を。結果として、お互いが永遠に平行線を辿る「エコーチェンバー」の完成である。

信者村では「やっぱり当たった!」の大合唱が響き、懐疑村では「こじつけもいいところ」という冷笑が飛び交う。そしてどちらの村の住民も、相手の村の存在など知る由もない。

「便乗商法」という名の二次創作

予言ブームに便乗して、「私も予知夢を見ました」「2025年8月に次の災害が」といった二次創作予言者たちも続々と登場している。まるで人気漫画の同人誌のような感覚で、オリジナル予言を量産する創作意欲には感心する。

YouTubeでは「たつき諒予言検証チャンネル」が乱立し、「次の予言を解説します」という動画が量産されている。再生数とともに広告収入も右肩上がりだろう。災害への不安を金に換える錬金術は、現代の新しいビジネスモデルかもしれない。

作者本人の困惑という皮肉

何より皮肉なのは、当の作者であるたつき諒氏が「あの本は予言ではない」「帯の文言は編集者が書いたもの」と明言していることだ。つまり予言村の住民たちは、作者本人が否定している「予言」を信じて大騒ぎしているのである。

これはまるで、冗談で言った一言が一人歩きして、本人が「あれは冗談です」と言っているのに、「謙遜するな!君は預言者だ!」と祭り上げられているような状況だ。

そして次の「予言」を待つ人々

今回のカムチャッカ地震で「的中」を確信した人々は、早くも次の予言探しに余念がない。「8月には何が起きる?」「富士山噴火はいつ?」-まるで次回予告を待つアニメファンのような熱心さである。

そんな彼らを見ていると、人間という生き物の「物語への渇望」の強さを実感する。科学的な説明よりも、ドラマチックな物語の方が心に響くのだ。たとえそれが、カムチャッカからの遠地津波注意報程度の現実であっても。

予言村の平和な日常

結局のところ、予言が当たろうが外れようが、ネット予言村の住民たちは幸せそうである。当たれば「やっぱり!」と勝ち誇り、外れれば「解釈が間違っていた」「まだ時期が来ていない」と次の希望を見つける。

この不屈の楽観主義には、ある種の敬意すら感じる。現実がどんなに地味で退屈でも、常に次のドラマを期待して生きる姿勢は、もしかすると我々よりも人生を楽しんでいるのかもしれない。

ただし、津波警報が出たら素直に避難しよう。予言の的中を喜んでいる場合ではない。

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